カテゴリ:講師



2013/11/22
 そういうわけで、瀬下先生のおかげで朝日新聞に入社し、記者になって2年目のことだ。初任地の鳥取支局で遅めの夏休みがもらえ、皇居のお堀端にある毎日新聞に瀬下先生を訪ねた。先生は『サンデー毎日』のデスク。編集部のある出版局に、約束の時間にのこのこと入っていった。そのころはおおらかで朝日も毎日も、けっこう自由にひとが出入りしていた。勝手知ったる毎日のビルである。  記憶では陽は少し傾いていたと思う。あいさつをし、先生に鳥取土産を渡して、仕事の手がすくのを隅っこの方で待っていた。酒呑みへのお土産なので、粒ウニの瓶詰か、あご竹輪か、豆腐竹輪か、そのあたりだろうが、忘れてしまった。  そのうち、編集部のある広いフロアの私とは反対側の隅っこあたりが、なんだかざわざわしてきたのである。声が聞こえる。「台湾で旅客機が墜落」「日本人は?」「名簿は出たか」……。編集部員がわさわさ動き出した。そのうち、「ムコウダ・クニコ」という情報が飛び出した。部内はさらに騒然としてきた。 「家に電話してみろ」「留守番電話になってる」「『台湾に旅行していて○○日に帰る』って、言っている」…、あああ。どよめきが起こる。  その日、1981年8月22日。作家向田邦子さんは、旅行先で乗り合わせた台北発高雄行き遼東航空機の空中爆発で、南方の空に散華した。享年51。改めて調べてみて、いまのぼくより5歳も若く亡くなったのに驚く。事故の発生は午前10時ころだったというが、ぼくの記憶では、『サンデー毎日』編集部の騒然は午後のような気がする。  いずれにしても、ライバル会社の駆け出し記者は、眼の前で起きている『サンデー毎日』編集部のてんやわんやに呆然としていた。  「じゃあ、行こうか」  どれだけ経ったか、瀬下さんの声がかかり、毎日新聞社ビルの地下にある居酒屋に行ったような気がする。取材記者の手配が済めばデスクの手はしばらく空く。 (平)
2013/11/04
 その日、暮れなずむ皇居の堀を眺めながら、わたしは書いてきた作文の入ったカバンを抱え、待ち合わせ場所に指定された毎日新聞社正面玄関の階段に腰かけていました。1979(昭和54)年秋ごろのこと。わたしが瀬下先生に作文を教わったのは、34年も前のことです。ペンの森ではなく、先生は毎日新聞社発行の「サンデー毎日」デスクでした。30分、45分、1時間…約束の時間を大幅に過ぎても、先生はビルの上階にある編集部から降りてこない。どうしたんだろう。何かあったんだろうか。いや、これは根性試しかも。帰ったら負けだ。いろんな思いが去来しました。焦れて焦れて焦れたころ、 「おう。じゃあ、ちょっと行こうか」  先生登場。編集会議が長引いたとのこと。そのまま毎日新聞社のビルの中にある居酒屋にいき、作文を渡す。ちょちょいと筆が入り、アドバイスをもらう。2人の間には酒がありました。そうなんです。無料どころか、一杯おごっていただきながら作文を見てもらっていたのです。先生は「七色の文体をもつ」といわれるほど、やわらかくて多彩な文章の書き手として毎日新聞社内でも知られた記者でした。  瀬下先生と知り合ったのは、あるフリーライターの紹介でした。このライター氏は先生の下で仕事をしていて、たまたま私の参加していた早稲田大学内のノンセクトの学生新聞を取材に来たのが縁です。マスコミ寺小屋「ペンの森」の事業をやがて立ち上げる先生の、あのころのわたしは練習台だったのかもしれません。ともかく、おかげでわたしは第一志望の朝日新聞に入れました。いま、50代なかばになって、しきりに「ペンの森」に顔を出していますが、これは、お礼奉公だと思っています。  先生は75歳。ずいぶん歳はとられたけど、毎日、マスコミ志望者を教え、日に3杯の焼酎のお湯割りを欠かしません。わたしも一丁前の飲兵衛に鍛えていただき、日本酒の冷やで相手をさせてもらっています。マスコミ志望者諸君の作文やエントリーシートは、酒が入る前に添削します。飲むとすぐ酔っぱらうのでね。 (平)この稿続く