カテゴリ:ペン森通信



2014/02/05
 週刊現代の2月15日号に掲載されているポテチ次郎の連載漫画アー・ユー・ハッピー?にでてくる女子の会話。「昨日の合コンどうだった?」「何か都知事ってたよね」「うん!」...

2014/01/14
 東京都知事選は細川・小泉連合の参戦で俄然おもしろくなってきたが、ここではその前の今月19日投開票の沖縄名護市長選に注目したい。きょう14日付の朝日の情勢調査によると、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に反対の稲嶺進が末松文信より有利に展開しているそうだ。これは予想通りである。仲井真知事は12月27日国に対して態度を軟化させ、辺野古沿岸部の埋め立てを承認して、沖縄県民の反発をかっていた。  国は仲井真に毎年3000億円以上の沖縄振興予算を確約したが、仲井真知事は3000億円で沖縄を売った、と感じる沖縄県民もいるらしい。仲井真は2010年の知事選で県外移設を公約に掲げて当選した。とんでもない裏切りである。戦後69年にわたって基地負担をしてきた沖縄県民は当然、納得しない。沖縄は辺野古移設と振興策をセットで考える国を警戒してきた。二つは別物というのがこれまでの言い分だったのだ。  普天間の県外移設は民主党の鳩山由紀夫が総理のとき叫んだ。鳩山とつぎの管直人は史上最低の総理大臣だったが、鳩山に功績があったとすれば、県外移設という手があることを国内に知らしめたことだ。これによって沖縄県民も国民も県外移設の妙手に一時、うなったのである。同時に日本がアメリカにまだ占領されていることも意識せざるをえなかったわけである。完全な占領ではないが、半分占領された独立国家が日本なのだ。  保守系の仲井真は自民党や安倍政権を頼りにしているが、県外移設を政権側が考慮しているという話はいっこうにきこえてこない。仲井真はなんの約束事もなしに勝手に知事に当選しそうな県外移設を唱えていた。これでは目算ゼロの鳩山とそっくり同じである。民主党はいまや気息延々たるものだが、沖縄縄を売った仲井真も辞職ものであろう。埋め立て承認時、仲居真が安倍へのおべんちゃらに気色悪さを覚えたひとも多かったはずだ。  名護市長選は辺野古移設反対の稲嶺と移設推進新人との一騎打ちだ。辺野古移設の是非をめぐる戦いだが、現職の稲嶺が勝つだろう。そうすればアメリカから公式に失望された安倍政権は、強引な手段で辺野古移設を進めてアメリカのご機嫌をとろうとするだろう。これでますます沖縄県民の民意は離れて、沖縄独立の機運が生じてくるかもしれない。ぼくは沖縄には2回しか行ったことはないが、日本語が通じる独立国の誕生に賛成だ。  ナポレオンの使いが中国からの帰りに当時の琉球と言った沖縄に立ち寄ったそうだ。帰国してナポレオンに報告した。「戦争をまったくしたことのない独立国が太平洋にありました」と。「そんな国があるわきゃない」とナポレオンは信用しなかったという。日本は核爆弾5000発がつくれる量のプルトニウムを国内外に保有し、周辺国から懸念されているが、安倍政権で風向きが怪しくなった日本の隣に真の平和国家ができればすばらしい。  順風満帆に見えた安倍政権だが、名護市長選で辺野古移設推進が敗れ、東京都知事選で原発ゼロの細川が小泉の支援をえて勝てば、安倍の内憂外患がはじまる。名護は稲嶺が、東京は細川が勝つとぼくは期待を込めてみている。困った安倍は沖縄独立に手を貸し、原発再稼働と輸出をあきらめるだろうか。そうしてもらいたいものだ。 瀬下恵介(ペンの森主催) ペン森通信はこちらからもご覧になれます。

2013/12/03
 駅中の中華チェーン日高屋で昼食をとっていたら、隣席にすわった杖つきの老女が肉野菜炒めの大もりを頼んだ。こんな小さなばあさんが大もりを食べるのか、とその食欲ぶりに感心していたら、大もりの皿が一向に減らない。すると、ばあさんは買い物袋からビニールの袋を取り出して皿の中身を詰めはじめた。どうやら夕食にするらしい。だから大もりなのだろう。これは老人の生活の知恵だなあ、とまたまた感嘆しきりだった。  自宅から駅を挟んで向こう側が多摩ニュータウンである。多摩ニュータウンはいまや老人タウンと化し、子どもはほとんで見かけない。朝10時すぎスーパーに買い物にいくと、やたらじいさん、ばあさんが目立つ。そういうこっちもじいさんだが、こっちのかごにはインスタントものは入ってない。生の肉、魚や野菜が主で、包丁やガスといった手をかけねばならないものばかりだ。見ようによっては食堂などの料理人だが、量は少ない。  近くに小学校中学校はあるが、周囲は圧倒的に年寄りが多い。若者は多摩大や国士舘、中大,帝京といった大学が近くにあるので、アパート・マンション住まいをしている学生たちである。深夜に帰宅すると、途中で大声を出してしゃべりながら歩いている若い男女としばしば出会う。子どもの声が聞こえるのは町内の公園で行う餅つき大会のお触れをして回るときか、祭りの山車をかついでいる元気な甲高い掛け声くらいである。  ぼくがここに引っ越してきたのはほぼ30年前だ。小学校にあがる子どものお祝いを町内でしていたから、子どもの数もそこそこあった。京王の特急停車駅だし特急で新宿まで30分、小田急も通っていて不便なところではない。物価も安くすごしやすい住宅地なのに、若者は結婚を機にでてゆくみたいだ。町内もいつの間にやら老人が目につくようになった。うちの東隣は主人を亡くして老未亡人独り、真向かいは夫壮健なるも妻認知症。  という具合なので朝おそくうちをでると、施設の車が駅へ行くまでの10軒のうち3軒は停まっている。介護の出迎え車である。すっかり姿を見なくなったね、と妻と話していると、すでに亡くなっていることも再三再四である。東京の郊外でこういう状況だから都心の団地や地方の限界集落はもっとわびしいだろう。それでもぼくの町内では新築住宅が4軒建ち、物干しを見ると子どもの小さい若夫婦が住みついたようである。  若夫婦は隣近所になんのあいさつもないから、干してある洗濯もので家族構成を推測する以外にない。でも住民の新陳代謝があるのはいいことである。ほっとする。先日の日曜日、ふとしたことから妻が「私たちのお墓どうする?」と聞いてきた。ぼくは樹木葬と決めているが、場所は未定。「都の抽選は何十倍もあるそうよ」と妻がいう。「何回も応募を続ければそのうち」と重ねる。先祖の墓地は鹿児島県にあるがあまりにも遠すぎる。  天皇・皇后も終活をしていたようで、土葬ではなく火葬にしたいと言った。日本は火葬の国だから当然、ぼくも火葬になる。骨壺の上に土盛りをして樹木の苗を植え、その樹木が墓石代わりになるのだろう。ぼくは俳句を詠むとき若い時分から号を恵山人と称してきた。樹木葬こそぼくにふさわしいのである。 瀬下恵介(ペンの森主催) ペン森通信はこちらからもご覧になれます。

2013/11/27
 ペン森は18期生の姿が消え、19期生が作文を書いている。11月中には14人になる見込みだが、まだのんびりしたもので熱気といったものは皆無の状態だ。おかげで指導する立場のこっちも緊迫感に乏しく、毎晩楽しく飲んでいる。12月にはいったら、就活解禁となるので大学3年生の雰囲気も変わってきて、それにつれペン森にも切迫感が忍び寄ってくるだろうし、悠々と構えているこっちも気を引き締めねばなるまい。  作文はネタだ、とぼくが強調するもんだから19期生もネタ探しに懸命である。ネタとは寿司のタネからきたマスコミ用語であまり上品な言葉とは言えない。品よく表現すれば素材、あるいは題材ということになる。ネタ探しのためにかけずり回っている者もいるが、かけずり回って掴めるセンスがあるなら、かけずり回る必要はない。それはセンスと大いに関係がある。センスというアンテナを持つ者に引っかかるのがいいネタだからだ。  ところが、大学生の多くはそのセンスに乏しい。テレビや新聞や週刊誌のニュースや企画価値はまさにセンスの産物である。とくにテレビと週刊誌はおもしろくなければ視聴率は低迷するし、売れ行きも芳しくない。おもしろいかおもしろくないか、という表現も一般の用語とは異なるマスコミ用語で、不謹慎なケースでもそれは使われる。単純に事件事故の犠牲者の数を例にとると、1人よりも3人のほうがニュースになるからおもしろい。  犬が人に噛みつけばニュースにならないが、人が犬に噛みつけばニュースになるといわれたものだが、要は意外性があるかどうかがおもしろさを左右する要素なのである。作文を診断する側は無意識のうちにもこのネタはニュースになるか、企画になるか、と判断している。だから、すでに報道された二次的なネタはおもしろくない。この執筆者はセンスがないとみなされる。作文は診断する側にとってはじめて知る一次的な情報がいいのだ。  一次的な情報とは自分の体験にほかならない。19期生に対してぼくは、自分の過去を掘り起こせ、と注文をつけている。喜怒哀楽をそれぞれ、喜なら喜、怒なら怒、哀なら哀、楽なら楽とノートの各ページに1分類ずつまず記入しなさい、と。つぎに喜なら喜のページに体験事例を振り返って見出しをつけ、それはいつ、どこで、(だれと)、どのような状況で体験したかを詳述し、そのときの感情と現在の感情の差があれば、それも書き添える。  受験や就活はみんなが体験するありきたりの事例だから除外する。各人、親がいて、学校に通い、友だちがいて、ひとに出会ったはずだから、なにか心に残り、気持ちの底にたまっている出来事の追憶があるはずである。それを喜怒哀楽の4つに分けて記入することによって、身近な一次情報のネタを仕入れ、同時にセンスもいくらか身についてくるだろう。平凡平穏な21歳までであったとしても、平凡平穏と気づくだけでも効果ありだ。  すべての目に見えるものは目に見えないものに支えられている、という箴言がある。目に見える21歳の実在人物は、21年間のあいだ、目に見えないものに支えられてきたのである。対象が人物であれ、現象であれ、表面では目に見ないその奥や背景や成り立ちに目を向けるのがネタ探しの要諦である。 瀬下恵介(ペンの森主催) ペン森通信はこちらからもご覧になれます。

2013/11/11
 携帯電話の機種を替えた。ガラ系だから前のものとそっくりだが、今度はケータイからFBも送信できる。送信の仕方はまだわからないが。慣れるまで年が年だけにだいぶ時間を要するかもしれない。一昨日、19期男子がぼくの背中にくっついている最初の写真を投稿したのは、19期の別の男子。この別の男子が、新機種への切り替え手続きを全部やってくれた。旧ケータイは11期男子が手続きしてくれたが、寿命がきたようだった。  新機種もソフトバンクで防水機能がついている。トイレに落とすひとが多いらしいが、ぼくはポケットには入れてないので落とす心配はない。旅以外はリュックの収納場所に常時しまっている。電話機能だけがぼくには必要。あとはFBに使う写真があればそれでいい。したがって、スマホなんて多機能はぼくには使いこなせないから無用の長物である。今回のケータイだって、どこをいじればどのような機能なのかまったくわからない。  ところでこの新機種の最初の写真でぼくの後ろに接触している男子も18期流れの19期生だが、老齢同性のぼくの胸を触ろうとする。老人男の胸を触ってなにが満足できるのだろう。かれは特定秘密をもっているのかもしれない。「半沢直樹」の金融庁査察官もおねぇだったから、いまどき驚きはしないが、じじいに触ろうとするのはやはり異常だ。16期男子にも同趣味の者がいるから油断できない。じじハラの被害にぼくは遭っているぞ。  じじハラなんて珍奇な被害はぼくの特定秘密だ。あまり自慢できることではないが、ぼくは役人ではないから隠蔽体質は持ち合わせてない。昨日7日、衆院で特定秘密保護法案の審議がはじまった。けさ目にした朝日、毎日は言論の自由や国民の知る権利とのからみで廃案にしろと叫んでいる。当然だろう。体制批判が犯罪になった戦前の治安維持法を想起させたり、北朝鮮や中国のような息の詰まる表現の不自由を連想するからである。  情報というのはそれを入手できる立場にいる者にとって、秘密のままであることが己の権力をおいしく感じさせる魔力をもつ。そういう性質のものである。それは自己満足にすぎないのだが、とくに官僚はこんなことまで隠すのかと驚く。警察庁、防衛庁などで「取り扱い注意」「秘」と赤い印のついた紙をよく目にしたものだ。記者クラブに配布される過激派の分類ですら「取り扱い注意」とあった。要するに秘密にしておけば身は安全だ。  すでに公になっている情報でさえ秘密扱いになるというのは秘密だと特定する担当者の恣意次第ということだろう。「どうして、なんでもかんでも秘密にするの?」と警察キャリアに聞いたことがある。「口が軽いと思われたくないからさ」。官僚はいまも昔も人事が一番の関心事だ。自分の得失点が気になる。特定秘密保護法が成立すれば、特定秘密の取扱者になる公務員は一層口を閉ざし、知る権利は見えない背後に消え去るにちがいない。  携帯の新機種はぼくにとってはマル秘だらけだ。知らぬが仏ならいいけど、この場合おカネで知る権利を買ったわけだから知らぬは損である。特定秘密保護法はアメリカの強い要請なのだろう。アメリカのポチたらんとする安倍は廃案にする気はないだろうが、新聞は廃案にすべく頑張らねば存在理由が問われる。ぼくもじじハラにもめげず頑張ろう。以上、今回は二つの話を無理矢理ひとつにした。 瀬下恵介(ペンの森主催) ペン森通信はこちらからもご覧になれます。

2013/11/01
 日本の農政はNO政だと評される。政策が安定しないからだ。きょうの朝日新聞のトップはコメの減反廃止を農水省が自民党に提示した、という記事。減反は生産調整という美名の下で40年維持されてきた。これが廃止されるというのだから、大きな農政転換である。朝日は内政面(4面)でも関連記事を大きく掲載している。他紙がどう扱っているのか知らないが、農水省が朝日を使ってアドバルーンをあげて反応を見たのではと思う。  経済記事なら日経に最初に報道してもらえるようニュースを漏らして反応を見る日経ファーストが有名だが、官僚の手法として朝日ファーストがあるような気もする。朝日ファーストであろうとなかろうと、将来を見据えた日本の農業を転換しなければならないことは間違いない。減反するとお金がもらえるという仕組みもそうだし、コメ(精米)778%と輸入農産物に高関税を課すという策もしかり、日本農業は手厚く保護されてきた。  そりゃそうだろう。農家の平均経営規模はEUが日本の9倍、アメリカ100倍。オーストラリアにいたっては2000倍だ。とても太刀打ちは不可能。日本の食糧自給率は39%と他国に比べて極端に低い。60%は輸入に頼らねば日本人は食いっぱぐれるのだ。もっとも日本の自給率の計算は世界のどこも採用してない独特のもので、実際の自給率は60%以上という説もある。日本は生産ベースではなくカロリーベースで計算している。  減反というのはコメの供給を減らす政策にほかならないが、なるほどぼくも朝食はいつの間にかトーストに変わっている。前はご飯派だったおやじがパン食になった家庭も多いと思われる。ぼくは高齢になって、以前なら10キロ持てたコメもいまは5キロがやっとだ。高齢者にとってコメの重量は大きな問題だ。ぼくはスーパーでパンを買うことはあってもコメを買うことは年に何回もない。それも無料配達の時間帯を利用して買う。  ぼくが小学低学年のころは「お百姓さんありがとう」という歌があった。うちは林業を営んでいたが非農家には違いなく、肩身の狭い思いをした。田植えや稲刈りの農家が多忙な農繁期には小中学校も休みになった。小中学生を労働力とするほど、農業が盛んな時代だったのだ。ぼくが大学生だったころの60年当時、農家は500万戸だったが、2010年は約116万戸に減っている。大学生のころうちの林業も立ち行かなくなった。  時代の潮流からすると、農林漁業の第一次産業の衰退の流れは現在もつづいている。農水省のコメ生産見直しは、農家に対し自助努力を促すものだが、日本の農業は品質で世界と勝負する時代へと変化せざるをえないのだろう。寿司は世界中に広まってきたし、果物や日本酒やワインも評価が高い。日本の農産物も保護に甘えるのではなく、安心安全高品質で攻めに攻めて、夢と希望の業種に変質してそれで食えるようにしたいものだ。  世界の貿易の自由化と多角的貿易推進のための通商交渉ウルグアイラウンドに合意するとき、日本は農業に6兆円のカネをばらまいた。このカネは後継者育成に役立てることもなく、農道などの公共事業に7割が使われた、という。このような愚挙を繰り返してはなるまい。魅力ある輸出産業に脱皮できれば若者も従事するようになるだろう。 瀬下恵介(ペンの森主催) ペン森通信はこちらからもご覧になれます。

2013/10/29
 和食が12月、世界遺産に登録されるが、阪急阪神ホテルズのレストランで食材を偽装していることが明るみに出た。ペン森はまかないつきなので、食材を毎朝スーパーで仕入れて、リュックに入れてくる。だからいつも新鮮な手作り家庭料理を提供しているつもりだが、長いあいだ冷蔵庫に入れて忘れてしまうこともある。ときには賞味期限切れを使うこともある。ぼくは期限切れにはあまりこだわらないが、若者の目が厳しいから心配はない。  阪急阪神ホテルズの社長は偽装ではなく、罪の軽い誤表示だと最初はがんばっていたが、ついにメニュー表示の偽装を認め引責辞任した。札幌のルネッサンスサッポロホテルも実際の食材とは違うエビの名前をメニューに表示していたことがわかった。うちは大丈夫かとヒヤヒヤしているホテルトップも多かろうと思う。新聞各社社会部のデスクは同じような偽装をさがせ、と無理難題を命じていることだろう。ぞくぞく出てくるかもよ。  ヤマト運輸の冷凍食品の荷物を一部営業所が常温で扱っていることが朝日への内部告発によって表面化したが、ホテルの食材偽装も調理職場の内部告発にたよるほかない。偽の食材を調理職人が間違うわけがないとぼくは思うのだが、職人が気づかなかったとすれば よほど間抜けな職人だ。トビッコとイクラなんてまるっきり素人のぼくにすら区別がつく。 ステーキに牛脂を注入してそれをステーキと称していたなんて、消費者こそいい面の皮だ。  ぼくは賞味期限にはさほど神経質ではないが、消費期限と中国産は気になる。若者は賞味期限も消費期限も区別なく気にするようだ。まあ、一種の清潔病にかかっているのだろう。神経質な母親の食に対する安全追求が伝染しているのかもしれない。あるいはアルバイトで食品の管理の厳しさを体験しているせいかもしれない。消費期限切れ近いパンを段ボールにつめて足で踏みつける後ろめたい苦痛は作文によくでてくる。  ぼくら世代が食材に鈍感なのは戦時中や敗戦直後の物資難、食糧難で腐りかけて酸っぱくなったものや糸を引いているものまで口にしたことがあるからだ。ぼくは農山村育ちだから、バッタをとってフライパンで焼いてよく食べた。長野を旅してバッタのつくだにをペン森の土産に買ってきたら、ずいぶん不人気でぼくが酒のつまみにしてたいらげた。でも長野県人が食するざざ虫とハチの子は口にする勇気がでない。中国産食品も買わない。  ペン森のまかないは家庭料理だから、その場で調理して焼いたり煮たりすることが多い。 たまに出す焼き肉やすき焼きはたれが期限切れのことがある。頻繁に使用するしょうゆは最近出回っている酸化しない密封ボトルである。いま冷蔵庫をあけてみたら、賞味期限は酸みそが9月18日、からし酸みそが9月21日。マヨネーズが3本入っているが、3本とも器の表面にはなんの表示もないが蓋に表示があった。いずれも見事に期限切れだった。  期限切れはチェックの厳しい若者が使うときに確認して廃棄処分となるが、この点に関する限り若ものの神経質は日本の食の安心安全に寄与しているだろう。今夕はきのうの残りのサンマ三尾を焼く、あとは鎌倉ハムのウインナーに秋ナスのみそ汁。安心安全です。 *11月2,3,4日は連休にさせてもらいます。4日は予定がないので、また東京駅地下街をめぐるかな。 瀬下恵介(ペンの森主催) ペン森通信はこちらからもご覧になれます。

2013/10/22
 きのう定期健診を受けた。医者が「元気ですね。75歳とは思えない」としきりに感心していた。「しかも脳梗塞をやったとはね」と付け足した。元気なのはペン森生、とりわけ女子のおかげだ。若い人たちに囲まれているから、無害放射能が体内くまなく行き渡っている。ペン森は再来年4月、創立20周年を迎える。それまではよほどの想定外の事件事故に遭遇しない限りぼくは命脈を保っているだろうが、年内か来年中には確実に息絶える。  そうして世の中は何事もなかったかのように動いてゆく。ペン森やぼくの名前は歴史にとどめたいが、それは安倍晋三が残らないのと同じように歴史のかなたへ消え去るだけだ。仮に安倍が歴史に名を残すとすれば、小泉純一郎にならって原発ゼロを宣言し、それを実現したら後世に称えられる。原発の使用済み燃料の最終処分場は公募しているものの引き受け手はいない。使用済み燃料が無害化まで10万年、人類は10万年無事に存続するか。  安倍が推進する原発輸出、再稼働ゆえに事故が起こり、アメリカが自国民の避難区域とする50マイル(80キロ)圏内の避難民が生まれても歴史のひとコマにすぎない。ゼロにすれば子子孫孫永久に事故は起こらない。原発事故が起こらず、有害な放射能も浴びない原発ゼロが現実すれば、人類の10万年は安泰だ。もっとも、核兵器不使用を堅守できればの話だが、広島・長崎や『渚にて』の再来があると、人類の未来はない。  核のゴミの処分場もあてがないのに、原発推進なんて、こんな未来世代に対する無責任はない。それを許す現世代はどう考えてもおかしい。日米が共同でモンゴルに処分場を建設する計画があったが、2年くらい前、毎日のスクープでおじゃんになった。処分場の建設が進んでいるのは小泉が視察したフィンランドの「オンカロ」だけだ。地震国で地層の弱い日本と違って、フィンランドは固い岩盤の国とはそもそもの地層条件が異なる。  「オンカロ」はすでに着工されているが、地下420メートルの地下に核廃棄物を10万年保管しておく施設だ。日本でも国内調査はやっていて理論上は技術的に閉じ込めておくことが可能だと、安倍はみんなの党の渡辺喜美の質問に答えているが、閉じ込めておくその管理はどの機関が10万年も引き継いで行うのだろうか。紫式部の『源氏物語』は1000年前、過去1万年にさかのぼると人類は大洪水や隕石によって大破局に見舞われた。  このブログの」書き出しとは別にとんでもない方向に話が展開した。どうしても原発ゼロに引き寄せられてしまう。10万年と一口にいうが、10万年前は知恵あるヒトとして他の動物と区別する我々の祖先ホモ・サピエンスが地球上に広がりはじめたころである。どうもお金なら1兆円、歴史なら10万年というとてつもない単位を近年、軽く口にするようになったことが気になる。1兆円は100円の累積、10万年は1年間の累積なのだ。  ぼくの元気は左足が多少、不自由なだけで心身の支障は目下のところないが、やはりj寿命が来たら果てる。小泉も安倍も同じだ。ただし、人類がエネルギー源として使用しているコントロールのきかない原発の放射能はほとんど寿命というものがない。ホモ・サピエンスの本質は理性的な思考を行う、のではなかったか。原発推進のホモ・サピエンスはカネに目がくらんで理性を失ったか。他の動物はカネを知らないのだ。 瀬下恵介(ペンの森主催) ペン森通信はこちらからもご覧になれます。