カテゴリ:さんの就活応援ブログ



2013/12/13
 話は前後する。インターンシップがはやりだが、ぼくが新聞社を目指していた1979(昭和54)年には、そういう制度もことばもなかった。ぼくはよく、学生さんに「コネも実力のうちだ」と言っている。ひとのコネを羨むくらいなら自分でコネを見つけてくればいい。先に書いたように、慶応大学院生から転じたフリーライターNさんの紹介で瀬下先生と知り合えたのだが、同時にNさんが仕事をしていた朝日新聞出版局の週刊朝日や、その隣の朝日ジャーナルの記者たちも紹介してもらった。いつの間にか当時、有楽町にあった朝日新聞社5階の出版局に出入りするようになっていた。  編集補助のようなシゴトでアルバイト代をもらった。週刊朝日のニューヨーク別冊などを手伝った記憶がある。そのうちに朝日ジャーナルの編集者から声がかかり、「騎手を失った若者文化」という大特集のなかで、学生の風俗を描くコラムを書かせてもらうことになった。いま社の書庫で調べたら、それは1979年6月15日号だった。 『「僕って何」型不安の対処療法』というのと『リクルートセンターの実力』という2本である。なつかしい。各400字ほど。前者は忘れていたが、リクルートの方はいさあか記憶に残っていた。改めて読む。書き出しは「就職をひかえた四年生に、今一番身近な企業は何かと尋ねたら、日本リクルートセンターという答えがはね返ってきた」。この会社が就職活動中の四年生をモニター会と称して関連ホテルに缶詰めにし、テストや集団討論をさせていた。事前セレクションのにおいがした。じつはぼくもそのモニター会に学内ミニコミ「ワセダタイムス」の同期と参加した。あとになって彼はリクルートからお声がかかり、江副さんの面接まで進み、かなり入社を勧められたようだ(結局、行かなかった)。ぼくにお声はかからなかったが、おかげでコラムが書けた。  結びは、こうだ。「大企業の人事課に認知されたリクルートセンター。そのうちにリクルートということばが、国語辞典に認知されることにでもなれば、本来、新兵徴収という意味がどのようにジャパナイズされるのか」。署名はなく、(平)の1字のみ。あまり直されなかったと思う。けっこういま読んでも読めるではないか。  かくて、朝日新聞社出版局の空気をずいぶん吸って入社試験にのぞめた。翌年春、配属地が発表になった。大阪本社管内の鳥取支局だった。大阪に行くとなかなか東京には戻れない、ずっと大阪ということもあると周りから聞かされていた。これで銀座の灯ともお別れか。配属の決まった夜だったか、飲んだ勢いで、ぼくは有楽町の本社前で、 「なんで、おれが鳥取なんだよう」  と、大声で叫んでいた。(平)
2013/11/04
 その日、暮れなずむ皇居の堀を眺めながら、わたしは書いてきた作文の入ったカバンを抱え、待ち合わせ場所に指定された毎日新聞社正面玄関の階段に腰かけていました。1979(昭和54)年秋ごろのこと。わたしが瀬下先生に作文を教わったのは、34年も前のことです。ペンの森ではなく、先生は毎日新聞社発行の「サンデー毎日」デスクでした。30分、45分、1時間…約束の時間を大幅に過ぎても、先生はビルの上階にある編集部から降りてこない。どうしたんだろう。何かあったんだろうか。いや、これは根性試しかも。帰ったら負けだ。いろんな思いが去来しました。焦れて焦れて焦れたころ、 「おう。じゃあ、ちょっと行こうか」  先生登場。編集会議が長引いたとのこと。そのまま毎日新聞社のビルの中にある居酒屋にいき、作文を渡す。ちょちょいと筆が入り、アドバイスをもらう。2人の間には酒がありました。そうなんです。無料どころか、一杯おごっていただきながら作文を見てもらっていたのです。先生は「七色の文体をもつ」といわれるほど、やわらかくて多彩な文章の書き手として毎日新聞社内でも知られた記者でした。  瀬下先生と知り合ったのは、あるフリーライターの紹介でした。このライター氏は先生の下で仕事をしていて、たまたま私の参加していた早稲田大学内のノンセクトの学生新聞を取材に来たのが縁です。マスコミ寺小屋「ペンの森」の事業をやがて立ち上げる先生の、あのころのわたしは練習台だったのかもしれません。ともかく、おかげでわたしは第一志望の朝日新聞に入れました。いま、50代なかばになって、しきりに「ペンの森」に顔を出していますが、これは、お礼奉公だと思っています。  先生は75歳。ずいぶん歳はとられたけど、毎日、マスコミ志望者を教え、日に3杯の焼酎のお湯割りを欠かしません。わたしも一丁前の飲兵衛に鍛えていただき、日本酒の冷やで相手をさせてもらっています。マスコミ志望者諸君の作文やエントリーシートは、酒が入る前に添削します。飲むとすぐ酔っぱらうのでね。 (平)この稿続く