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作文で何が何でも筆舌に尽くすのだ

 きょう89日は、長崎に原爆が投下された日である。とともに、わが師にしてペンの森創設者の瀬下恵介師の命日。瀬下師は昨年のこの日に老衰のため亡くなった。享年82。一周忌だ。先生、お安らかに。

今朝、たまたま開高健著『最後の晩餐』(光文社文庫)を読了した。瀬下先生と開高さんとは、先生が創刊の指揮をとったニューズウィーク日本版の顧問を務めたという間がらでもあった。わたしにとっては、1964年の東京オリンピック前の東京の人びとを活写したルポ『ずばり東京』(週刊朝日連載、朝日文庫から光文社など)が、作文のお手本だった。『最後の晩餐』は、食人から、大阪のドテ焼き、戦後のご自身のひもじさまで、食にまつわるよしなし事を書きまくったエッセーである。その中に、こんなくだりがある。

 

何しろ私は言葉の職人なのだから、どんな美味に出会っても、“筆舌に尽くせない”とか、“言語に絶する”などと投げてはならぬという至上律に束縛されているのである。何が何でも筆舌を尽くし、こねあげなければならない。

 

 記者も同じ仕事である。見たこと聞いたことを文字で表現し、読み手に伝える。事件や事故の現場に行って、「なにしろすごかった」「とんでもない」「こう、ばぁ~と」……こんんな身振り手振りの表現では記事は成り立たない。テレビの食レポだって同じだ。ただ、目をつぶり、う~ん、ウマっ! こればっかりではダメなのだ。あなたの口の中にある食べ物はどんな味がして、それはいままでに食べた何にたとえられる?においは?のどごしは?後味は?どんな素材から出来ている?どんな料理法?……

経験を日本できちんと表現できるかどうか。マスコミ採用選考で作文を書かすのは、この素養があるかを見極めるためだ。ペンの森で作文指導するのも、この「経験の言語化」の鍛錬である。学生さんがだいたい最初に書いてくるのは、具体的なエピソードのない、抽象的な感想文である。それをこちらからインタビューしてディテールを聞き出す。それはどんな形をしていた?どんな色?におい?キミがいちばんこたえた先輩の一言は何だった?――それをそのまま再現して書けばいいんだ。その具体的な表現に、説得力があるんだ。相手の脳ミソに、その時の映像が浮かぶように書きなさい。

 

 そんなことを学生さんに話す。それは、わたし自身が、開高建、瀬下恵介のお二人から学んだことだ。(岩田一平)